思案橋
浜町と蔵町の道路をはさんで歩道にある思案橋を知っていますか?
昔、「本能寺の変」の時に、大阪の堺にいた家康は、この情勢の混乱を逃れようと、自分の国もとである三河(愛知県)に帰るために山を越え谷を越え、たどりついたところが四日市の海岸でした。
そこで家康は、海路にするか陸路にするか、すごく考えました。その考えた所が、この橋の上であったのです。その結果、海を船で渡ることにしました。そして、その船は、四日市の人たちによって出してもらって難を逃れることができたそうです。その後、人々は、その橋を「思案橋」と呼ぶようになりました。
上の写真は思案橋の一部です。
思案橋は浜町と蔵町に半分に分かれています。
昔は浜町辺りは海でした。浜町から蔵町へわたるときにつかわれていました。浜町辺りに道路をつくることになって思案橋を半分にして浜町と蔵町に半分ずつにして残しました。
思案橋の名前の由来は納屋町の近くまで来ていた、家康にとって危険な道をとおって浜松城にむかうか、船で浜松城にむかうかこの思案橋で悩みました。そして家康は船でむかうことにしました。そして無事に浜松城について江戸幕府をひらいたことから思案橋という名がつきました。