羽津小学校百年史に戦時中(太平洋戦争)の登下校の様子がありました。この時期、集団登校は行われていなかったようです。下校時の楽しい道草の様子がよくわかります。
今の子どもたちも楽しく下校したい気持ちは変わらないと思うのですが、安全第一でマナーよく下校してほしいものです。
現在のように列をつくって登校することはなかったから、となり近所の友だちと2、3人連れ立って学校へ行った。朝は始業時間に間に合うように急ぐため、道草などはできなかったが、帰りは今から考えると実に楽しかった。渡り廊下で「さようなら。」と手を振っていらっしゃる先生の姿が校門の桜の陰で見えなくなると、友だちが、「今日はこっちから帰りな。」と回り道に誘う。躊躇わず「そうしょうか。」と言いながら志氐神社に入りこみ、しいの実、どんぐりなど、暫くの間でポケット一杯に木の実を拾って出てくると、牛車を引いたおじさんが、「これこれ○○さんたち、南条(今の城山町のこと)まで乗せてってあげるよ」。と声をかけられ、空の牛車に乗せてもらって家へ帰る。道路は舗装してないから、ガラガラ、ガタガタと凸凹道である。
志氐神社のすぐ下の道が別名、鵤方面から金場町まで通っているが、国道を除いては一番広い道路だった。その傍を流れる川は水草を流しながら清く澄んで美しかった。時にはこの川の中をザブザブと入って帰ることもあった。初夏ともなるとこの川の辺りへ、暗くなるのを待ちかまえて、菜種殻を担いで、蛍狩りに出かけて行ったものだ。この頃の服装は簡単服を着ている子、浴衣を着て下駄を履いている子、藁草履の子、鼻緒に赤い布を編みこんだのを履いている女の子など様々である。一時間もしないうちに、源氏蛍とかいう大きい蛍や、平家蛍など2、30匹も獲って帰ることができた。
こんな楽しい下校も3年生(昭和19年)になった時には不可能であった。戦争が激しくなり敵機が日本上空を飛ぶようになったからである。
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