9月20日(水)放課後、修学旅行説明会を行いました。今年の修学旅行は京都への一泊旅行です。
ところで、昔の修学旅行はどんなものだったのでしょうか。
羽津小学校百年史によると、昔(おそらく明治時代)の修学旅行は次のようなものでした。
修学旅行
その年により行先は一定しなかったのですが、津、名古屋、伊勢方面への1泊または2泊の修学旅行は大変思い出に残っています。展覧会や博覧会を見たり、神社仏閣に参拝したりして見聞を広めました。
いつもよりきれいな木綿の着物に藁草履を履き、胡麻塩のむすび玉(おにぎりのこと)に梅干しや沢庵の弁当を持ち、2、30銭の小遣いをもらって、 家にあるあられやかき餅のおやつと一緒に風呂敷に包み、肩にかけて、初めて乗る汽車がとてもうれしかったことを覚えています。
今のように父兄の見送りもなく、小使いさんの持つ学校の旗を先頭にして、先生の引率で出発しました。この日ばかりは先生も子供たちの心を察してか、あまり平素のようにやかましくは注意されませんでした。
また、大正時代の修学旅行は次のようなものでした。
修学旅行 - 5年生になると吉野へ1泊2日の旅行に行き、6年生では、京都、奈良方面や伊勢、鳥羽方面へやはり1泊2日の日程で出かけました。 朝まだ暗いうちから校庭に集合し、校長先生のお話の後、国鉄四日市駅まで歩いて行き、ここから汽車に乗って出かけました。
新調の白ズボンに紺の脚絆を着け、父親の作ってくれた草鞋を履いて、弁当を白い風呂敷に包み、右肩より左下へかけて前で結ぶといった出で立ち でした。親元を離れて初めての旅行だけに胸を躍らせたものでした。
大正7年の夏には、富山県の一漁村から米騒動が起こり、たちまち各地に広がり、政府は軍隊の力まで用いてこれを鎮めるといった事件がありまし た。そしてこれらのニュースは新聞社の号外で朝に夕に伝えられ、ふだん静かな羽津の村も騒々しかったものです。この米騒動のため秋の旅行が取り消しになり、非常に残念な思いをした学年もあります。
こちらは平成3~5年頃と思われる修学旅行の写真。同じ帽子をかぶっているようです。今は帽子ではなく、同じ色のバンダナを荷物などに付けて識別します。(百二十周年記念誌より)
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