羽津小学校百年史によると、給食の制度ができたのは昭和25年とのこと。しかし、終戦直後の羽津小学校では、みそ汁給食があったようです。昭和36年には放送設備が整備され、お昼の放送も始まったようです。
こちらは現在(9月25日(月))の給食。米飯、牛乳、八宝菜、春雨サラダ。密閉容器に入っているのはいかを除去した八宝菜。アレルギー対応です。
昭和(終戦直後)
食糧事情は一層緊迫した状態になり、栄養失調で倒れたといううわさを耳にするようになると、学校でもみそ汁給食が始められるようになった。父兄が当番で準備に果てくださって、大根や菜っ葉を洗ったり切ったりしてくださっているのを、「今日は○○さんのおばさんたちよ。」とかけ寄って見に行ったりした。稲刈りのすんだ田んぼへいなごとりに出かけ、みそ汁のだしに使ってもらったり、たった一度だと記憶しているが、佃煮にしたいなごが給食に出たこともあった。学校の連動場でとれたさつま芋をふかしてもらったり、さつま芋の蔓から、たべられるやわらかい部分をとる作業をしたりもした。
昭和25年
昭和二十五年給食制度ができ、その設備も整い、各学級では給食当番が決められて、当番になった人は、マスクやエプロンをつけてパン、ミルクなどを配るといった衛生的なものになりました。当番の人が配り終るまでは、みんな席にきちんと座って待ち、配り終ると「いただきます。」といって食べ始めるのです。特に給食のミルクの味は、誰しも忘れることのできないものでしょう。 近所の友だちが学校を休めば、パンを届けてやったものです。
昭和30年代
新制度の教育も軌道に乗ってきましたが、特にPTA活動が活発になり、学校の設備の充実に大きなカを発揮しました。38年の夏休みに放送設備が備えつけられました。局名を「HBC」と名づけ、校内での伝達あるいは放送教育に活用され、子供たちは流れてくる音楽に耳を傾けながら、楽しく給食をたべることもできるようになりました。各組から男女1名づつ選ばれた放送部員は、放送室のとなりの会議室で給食を食べながら放送したそうです。
この給食設備も少しつつ改善されました。このころ、ミルクの二重釜という機械が購入され、これによって、粉乳をお湯でといたようなぎらぎらした感じのミルクが、ほんとうの牛乳のような感じになり、味もよくなったので児童の間で好評でした。
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