【学校の歴史】
本校の創立は、明治8(1875)年7月1日、末永、浜一色、野田、東西阿倉川の五ヶ村組合立として設立された海蔵学校に始まる。その後、明治22年市町村制の実施で四日市町海蔵村の組合学校として数年継続したが、明治32年に四日市町に市制施行のため分離後、現在の東阿倉川に移って海蔵尋常小学校となった。
校舎の整備等の変遷を経て、昭和5年に阿倉川村が四日市市に合併されると、校名を四日市市海蔵尋常高等小学校と改めた。そして、昭和7年に講堂が完成し、昭和12年に新校舎が完成したが、昭和20年6月18日未明の四日市空襲により、新設備を誇った校舎を全焼するという悲運に見舞われた。
戦後、校舎全焼のため九ヶ所に分かれて学ぶ子どもや教師の苦労は、物資の不足と相まって筆舌に尽くしがたいものがあった。この現状を見た地区の人々や市当局の協力により、昭和21年仮校舎が、昭和23年に新校舎が建設され、昭和24年7月25日四日市市立海蔵小学校として再発足することとなった。
昭和34年の伊勢湾台風によって講堂が全壊したが、昭和36年に体育館が落成し、昭和40年に新校舎、昭和45年に管理棟が落成し、昭和50年10月4日には創立百周年記念式典を挙行した。
<その後の変遷>
昭和55年 特別教室棟建設
昭和63年 新体育館建設
平成12年 南校舎の耐震補強工事
平成19年 児童数増加に伴い、特別教室棟の校舎増設
平成20年 給食室拡張、北棟給食エレベーター工事
平成25年 北校舎東側に防災井戸が完成
平成30年 PC教室、図書室、各準備室、つくし教室、多目的便所の改修工事
令和 元 年 新校舎完成、記念式典を挙行(12月23日)
▽新校舎完成記念の萬古焼タイルによる陶壁:児童昇降口
【校区の様子】
海蔵地区は古くから四日市市の地場産業である「萬古焼」の産地であり、窯業関連の企業などが多くみられた。宅地化による他地域からの移住などもあり、本校は市内有数の大規模校となっている。
現在、校区には、中小工場、商店、民家が密集している。学校の周囲にはまだ田畑が残っているが、校区内には鉄道や幹線道路が走り、子どもたちの安全を地域をあげて見守っている状況がみられる。
『海蔵小学校百年誌』ほかから作成、追記