■ 八郷小学校区 ■  
 
 
 八郷小学校区は、自然と歴史、産業と住宅地の調和の取れた地域です。(校区図)
 「八郷」という地名の由来は、朝明川の両岸に広がっていた8つの村が、明治29年(1896年)に合併したことにさかのぼり、八郷村が誕生しました。
 その後、昭和29(1954)年四日市市と合併し、現在に至ります。
 昭和40年台より、北永台・平津新町・伊坂台の団地が開発され、10の地区で八郷地区が形成されています。
 
 
 弥生時代後期の住居跡が多数発見され、江戸時代後期には銅鐸も発掘(1)されただけでなく、戦国時代には、中世の城址もよく遺構を留めている、古い歴史のある町です。
 現在は、工業用水の貯水池として伊坂ダム(2)が作られたことでその周辺も整備され、自然を利用したスポーツ公園として、年間を通して多くの人々の憩いの場となっています。
 また、伊坂ダムのふもとには、水田に囲まれた千代田町があります。古くは、鶴が多く飛来したことから「鶴沢」と呼ばれました。
 千代田町には、八郷村村長を長く務められた平田武翁の生家(3)も残されています。平田翁は、八郷小学校誕生のために中心となって働かれた方です。
 現在の千代田町には、介護施設「ハピネスやさと」、四日市市の授産施設「あさけワークス」の福祉施設があります。
 また、四日市市の上水を管理する「朝明水源地水源管理センター分析所」もあります。
 
 
 平津町は、朝明川の南岸に広がる町であり、中世から滋賀県・京都府への物流、特に「菜種油」を運ぶ「八風街道(4)」が、町の中心を通っています。
 1954(昭和29)年に四日市市と合併するまでは、八郷村役場が置かれていました。JR富田駅・近鉄富田駅からいなべ市藤原町を結ぶ三岐鉄道の平津駅(5)もこの地にあります。
 地内の「八幡神社(6)」には、横穴式石室のある円墳があり、出土した遺物は自治会が管理する「平津町郷土資料館」に納められています。
 
 
 古くは、中村・萱生と二つの地区を並べて呼ばれることもありました。
 その後、あかつき台の団地が造成されることで、八郷小学校の児童数が増加し、昭和50年代に八郷西小学校が開校され、萱生地区は八郷西小学校に通うことになりました。
 昭和46年に「東名阪自動車道」が開通されると、地区内を高速道路が走るようになりました。
 そして、昭和55年四日市コンビナートと高速道路を結ぶ幹線道路ができると、「四日市東インターチェンジ」ができ、四日市市の交通の要となっています。
 
 
 山村町は、丘陵地が多くを占め米作りに適さない土地でありました。
 しかし、江戸時代後期、庄屋伊藤善八が、十王山の山腹に高さ1.3m、幅0.75mの横穴をあけ、230mの水路を完成させました。
 この結果、山村町にも米作りが盛んになったという歴史を、小学校では、4年生の社会科「先人の働き」で学習しています。
 現在は、山村町の谷に利用した北伊勢工業用水道「山村貯水池(7)」が完成しています。その周囲はサイクリングロードになっています。
 
 
 広永町は、地区の北部に住宅がひろがっていましたが、新田開発により、朝明川沿いまで農地を伸ばしてきました。
 そのため、農業が盛んで、養蚕業を営む家が多かったと聞いています。
 新田開発されたところを広永新田で呼んでいましたが、朝明川対岸の大矢知地区の一部であった山添地区と合併し、現在の山分町となりました。
 山分町は、八風街道沿いには、醸造業が盛んでしたが、今は少なくなっています。
 現在は、朝明川の北岸一帯の農地に工業団地が開発され、活気に満ちた地区になっています。
 
 
 八郷地区は、朝明川が西から東に流れ、南北には、朝明川をはさむように丘陵地が広がっています。昭和40年頃から丘陵地に次々と団地が開発されました。
 朝明川の北側には、「北永台」「伊坂台」、南側には、「平津新町」「あかつき台」です。
 現在、あかつき台の子どもたちは八郷西小学校に通学しますが、3つの団地の子どもたちは八郷小学校に通学しています。
 3つの団地を合わせると、児童数の過半数を占めています。